
トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後《うしろ》に佇《たたず》んでいる。トロッコは山を下《くだ》るのだから、人手を借りずに走って来る。煽《あお》るように車台が動いたり、土工の袢天《はんてん》の裾《すそ》がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきを眺《なが》めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処《そこ》に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。
或《ある》夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外《ほか》は何処《どこ》を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端《はし》にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃《そろ》うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、――トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。
その内にかれこれ十間《けん》程来ると、線路の勾配《こうばい》が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好《よ》いと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐《おもむ》ろに、それから見る見る勢《いきおい》よく、一息に線路を下《くだ》り出した。その途端につき当りの風景は、忽《たちま》ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮《はくぼ》の風、足の下に躍《おど》るトロッコの動揺、――良平は殆《ほとん》ど有頂天《うちょうてん》になった。
しかしトロッコは二三分の後《のち》、もうもとの終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後《うしろ》には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。
「この野郎! 誰に断《ことわ》ってトロに触《さわ》った?」
其処には古い印袢天《しるしばんてん》に、季節外れの麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。――それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄《ほの》めいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さえも、年毎《としごと》に色彩は薄れるらしい。
その後《のち》十日余りたってから、良平は又たった一人、午《ひる》過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外《ほか》に、枕木《まくらぎ》を積んだトロッコが一|輛《りょう》、これは本線になる筈《はず》の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易《やす》いような気がした。「この人たちならば叱《しか》られない」――彼はそう思いながら、トロッコの側《そば》へ駈《か》けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
その中の一人、――縞《しま》のシャツを着ている男は、俯向《うつむ》きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう」
良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われは中中《なかなか》力があるな」
他《た》の一人、――耳に巻煙草《まきたばこ》を挟《はさ》んだ男も、こう良平を褒《ほ》めてくれた。
その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好《よ》い」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯《お》ず怯《お》ずこんな事を尋ねて見た。
「何時《いつ》までも押していて好《い》い?」
「好いとも」
二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑《みかんばたけ》に、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登り路《みち》の方が好い、何時《いつ》までも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下《くだ》りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直《すぐ》に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑のにおいを煽《あお》りながら、ひた辷《すべ》りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風を孕《はら》ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
竹藪《たけやぶ》のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止《や》めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先《つまさき》上りの所所《ところどころ》には、赤錆《あかさび》の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖《がけ》の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。
三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好《い》い」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論《もちろん》彼にもわかり切っていた。
その次に車の止まったのは、切崩《きりくず》した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児《ちのみご》をおぶった上《かみ》さんを相手に、悠悠《ゆうゆう》と茶などを飲み始めた。良平は独《ひと》りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈《がんじょう》な車台の板に、跳《は》ねかえった泥が乾《かわ》いていた。
少時《しばらく》の後《のち》茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟《はさ》んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有《ありがと》う」と云った。が、直《すぐ》に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油のにおいがしみついていた。
三人はトロッコを押しながら緩《ゆる》い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外《ほか》の事を考えていた。
その坂を向うへ下《お》り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後《あと》、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴《け》って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木《まくらぎ》に手をかけながら、無造作《むぞうさ》に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家《うち》でも心配するずら」
良平は一瞬間呆気《あっけ》にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途《みち》はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆《ほとん》ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜《おじぎ》をすると、どんどん線路伝いに走り出した。
良平は少時《しばらく》無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐《ふところ》の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側《みちばた》へ抛《ほ》り出す次手《ついで》に、板草履《いたぞうり》も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋《たび》の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙《はる》かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路《さかみち》を駈《か》け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪《ゆが》んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山《ひがねやま》の空も、もう火照《ほて》りが消えかかっていた。良平は、愈《いよいよ》気が気でなかった。往《ゆ》きと返《かえ》りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡《ぬ》れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側《みちばた》へ脱いで捨てた。
蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷《すべ》ってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇《ゆうやみ》の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気《ゆげ》の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲《く》んでいる女衆《おんなしゅう》や、畑から帰って来る男衆《おとこしゅう》は、良平が喘《あえ》ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
彼の家《うち》の門口《かどぐち》へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲《まわり》へ、一時に父や母を集まらせた。殊《こと》に母は何とか云いながら、良平の体を抱《かか》えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜《すす》り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣《わけ》を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………
良平は二十六の年、妻子《さいし》と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆《しゅふで》を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労《じんろう》に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………
良平(りょうへい)は、毎日(まいにち)村(むら)の外(そと)へ、その工事(こうじ)を見(み)に行(い)きました。工事(こうじ)といっても、ただトロッコで土(つち)をはこぶところを見(み)るのが、おもしろかったのです。トロッコの上(うえ)には土工(どこう)が二人(ふたり)いて、土(つち)の後(うし)ろに立(た)っていました。トロッコは山(やま)を下(くだ)ってくるので、人(ひと)の力(ちから)がなくても走(はし)ります。トロッコの台(だい)がゆれたり、土工(どこう)のはんてんのすそがひらひらしたり、ほそい線路(せんろ)がしなったりしました。良平(りょうへい)は、そういうけしきを見(み)ながら、土工(どこう)になりたいと思(おも)うことがありました。せめて一回(いっかい)だけでも、土工(どこう)といっしょに、トロッコにのりたいと良平(りょうへい)は思(おも)いました。
トロッコは、村(むら)のはずれの平(たい)らな土(つち)の所(ところ)に来(く)ると、じぶんから止(と)まってしまいます。そのとたんに、土工(どこう)たちは軽々(かるがる)とトロッコから飛(と)びおります。そして、トロッコの土(つち)を、線路(せんろ)のはしにざっと空(あ)けます。それから、今度(こんど)はトロッコを押(お)して、山(やま)のほうへもどりはじめます。良平(りょうへい)は、その時(とき)にのれなくても、トロッコを押(お)すことができたらいいなと思(おも)いました。
ある夕方(ゆうがた)のことでした。それは、二月(にがつ)のはじめごろでした。良平(りょうへい)は、二つ年(とし)下(した)の弟(おとうと)と、弟(おとうと)と同(おな)い年(どし)のとなりの子(こ)といっしょに、トロッコがおいてある村(むら)のはずれに行(い)きました。トロッコは、どろだらけのまま、うす明(あか)るい中(なか)に、並(なら)んでいました。でも、まわりを見(み)ても、土工(どこう)たちのすがたは、どこにも見(み)えませんでした。三人(さんにん)の子(こ)どもたちは、おそるおそる、一番(いちばん)はしのトロッコをおしました。三人(さんにん)の力(ちから)がそろうと、トロッコはとつぜん「ごろり」と車(くるま)のわが回(まわ)りました。良平(りょうへい)は、その音(おと)にドキッとしました。でも、二回目(にかいめ)の音(おと)は、もうこわくありませんでした。
「ごろり、ごろり」――トロッコはそんな音(おと)を出(だ)しながら、三人(さんにん)の手(て)に押(お)されて、ゆっくり線路(せんろ)をのぼって行(い)きました。そのうちに、十(じゅっ)けんくらい行(い)くと、線路(せんろ)ののぼりが、急(きゅう)になってきました。トロッコは、三人(さんにん)の力(ちから)では、いくら押(お)しても動(うご)かなくなりました。時(とき)には、トロッコといっしょに、押(お)しもどされそうになることもありました。良平(りょうへい)は、もういいと思(おも)って、年(とし)下(した)の二人(ふたり)に合図(あいず)をしました。
「さあ、のろう!」
三人(さんにん)は、いっせいに手(て)をはなして、トロッコの上(うえ)に飛(と)びのりました。トロッコは、さいしょはゆっくり、でもすぐに、いきおいよく、いっきに線路(せんろ)を下(くだ)りはじめました。そのとたん、前(まえ)のけしきが、右(みぎ)と左(ひだり)に分(わ)かれるように、ぐんぐんと目(め)の前(まえ)にひろがってきました。かおに当(あ)たる夕(ゆう)ぐれの風(かぜ)、足(あし)の下(した)でゆれるトロッコ――良平(りょうへい)は、ほとんど天(てん)にも上(のぼ)るような気(き)もちになりました。でも、トロッコは二(に)三(さん)分(ぷん)のあとには、もうもとの場所(ばしょ)に止(と)まっていました。
「さあ、もう一回(いっかい)押(お)そう!」
良平(りょうへい)は、年(とし)下(した)の二人(ふたり)といっしょに、またトロッコを押(お)しのぼろうとしました。けれど、まだ車(くるま)のわも動(うご)かないうちに、後(うし)ろから足音(あしおと)が聞(き)こえてきました。それはすぐに、大(おお)きな声(こえ)に変(か)わりました。
「このやろう! だれにことわってトロにさわった?」
そこには、ふるいはんてんを着(き)て、冬(ふゆ)なのにむぎわらぼうしをかぶった、背(せ)の高(たか)い土工(どこう)が立(た)っていました。そのすがたを見(み)た時(とき)、良平(りょうへい)は年(とし)下(した)の二人(ふたり)といっしょに、五(ご)六(ろっ)けんにげ出(だ)しました。それから、良平(りょうへい)は、つかいの帰(かえ)りに、人気(ひとけ)のない工事場(こうじば)のトロッコを見(み)ても、もう二度(にど)とのってみようとは思(おも)いませんでした。ただ、その時(とき)の土工(どこう)のすがたは、今(いま)でも良平(りょうへい)の頭(あたま)のどこかに、はっきりとおぼえてのこっています。うす明(あ)かりの中(なか)に見(み)えた、小(ちい)さい黄色(きいろ)のむぎわらぼうし――でも、そのきおくも、年(とし)がたつごとに、だんだん色(いろ)がうすれていくようです。
それから十日(とおか)ほどたったころ、良平(りょうへい)は、また一人(ひとり)で、昼(ひる)すぎの工事場(こうじば)に立(た)って、トロッコが来(く)るのを見(み)ていました。すると、土(つち)をつんだトロッコの他(ほか)に、まくらぎをつんだトロッコが一台(いちだい)、太(ふと)い線路(せんろ)をのぼってきました。このトロッコを押(お)していたのは、二人(ふたり)ともわかい男(おとこ)でした。良平(りょうへい)は、男(おとこ)たちを見(み)た時(とき)、なんとなく親(した)しみやすいと感(かん)じました。「この人(ひと)たちなら、しかられない」――そう思(おも)いながら、良平(りょうへい)はトロッコのそばへ走(はし)って行(い)きました。
「おじさん。押(お)してあげようか?」
その中(なか)の一人(ひとり)、しまもようのシャツを着(き)ていた男(おとこ)は、うつむいたままトロッコを押(お)しながら、思(おも)ったとおりに、やさしくへんじをしてくれました。
「おお、押(お)してくれるのか」
良平(りょうへい)は、二人(ふたり)の間(あいだ)に入(はい)って、力(ちから)いっぱいトロッコを押(お)しはじめました。
「なかなか力(ちから)があるな」
もう一人(ひとり)、――耳(みみ)にたばこをはさんだ男(おとこ)も、そう言(い)って、良平(りょうへい)をほめてくれました。そのうちに、線路(せんろ)ののぼりが、だんだん楽(らく)になってきました。「もう押(お)さなくていい」――そう言(い)われるかもしれないと、良平(りょうへい)は心(こころ)の中(なか)でとても気(き)になっていました。でも、二人(ふたり)のわかい土工(どこう)は、前(まえ)よりもこしをのばして、だまって車(くるま)を押(お)しつづけていました。良平(りょうへい)は、とうとうがまんできなくなって、おずおずと聞(き)きました。
「いつまでも押(お)していていい?」
「いいとも」
二人(ふたり)は、いっしょに返事(へんじ)をしました。良平(りょうへい)は、「やさしい人(ひと)たちだな」と思(おも)いました。五(ご)六(ろく)町(ちょう)ほど押(お)しつづけると、線路(せんろ)はまた急(きゅう)なのぼりになりました。そこには、右(みぎ)と左(ひだり)の みかんばたけ に、黄色(きいろ)い実(み)が、たくさん日(ひ)にあたっていました。
「のぼり道(みち)のほうがいい。いつまでも押(お)せるから」――良平(りょうへい)は、そんなことを考(かんが)えながら、体(からだ)全部(ぜんぶ)でトロッコを押(お)しました。みかんばたけの間(あいだ)をのぼると、急(きゅう)に線路(せんろ)はくだりになりました。しまもようのシャツをきた男(おとこ)は、良平(りょうへい)に言(い)いました。
「やい、のれ」
良平(りょうへい)は、すぐに飛(と)びのりました。三人(さんにん)がトロッコにのったとたんに、みかんばたけの におい を受(う)けながら、トロッコはすべるように走(はし)りだしました。
「押(お)すよりも、のるほうがずっといい」――良平(りょうへい)は、服(ふく)に風(かぜ)をふくらませながら、あたりまえのことを考(かんが)えました。
「いく時(とき)に、押(お)すところが多(おお)ければ、帰(かえ)る時(とき)に、のるところも多(おお)い」――そうも考(かんが)えました。
たけやぶのある所(ところ)にくると、トロッコはしずかにとまりました。三人(さんにん)は、またさっきのように、重(おも)いトロッコを押(お)しはじめました。たけやぶは、いつのまにか ぞうき林(ばやし) になっていました。つまさきあがりの道(みち)には、所(ところ)どころに、赤(あか)さびの線路(せんろ)が見(み)えないほど、落(お)ちばがたまっていました。その道(みち)を、やっとのぼりきると、今度(こんど)は高(たか)い がけ のむこうに、広(ひろ)くて寒(さむ)そうな海(うみ)が見(み)えました。その時(とき)、良平(りょうへい)の頭(あたま)の中(なか)で、「遠(とお)くまで来(き)すぎた」とはっきり感(かん)じました。三人(さんにん)は、またトロッコにのりました。車(くるま)は、海(うみ)を右(みぎ)に見(み)ながら、ぞうきのえだの下(した)を走(はし)って行(い)きました。でも、良平(りょうへい)は、さっきのように楽(たの)しい気持(きも)ちにはなれませんでした。「もう、帰(かえ)ってもらいたい」――そう心(こころ)の中(なか)でねがいました。でも、行(い)くところまで行(い)かなければ、トロッコも、土工(どこう)たちも、帰(かえ)れないことは、もちろん良平(りょうへい)にもわかっていました。
そのつぎに車(くるま)が止(と)まったのは、わら屋根(やね)の 茶店(ちゃみせ) の前(まえ)でした。それは、山(やま)をきりくずした所(ところ)にあるました。二人(ふたり)の土工(どこう)は、その店(みせ)にはいると、赤(あか)ちゃんをおんぶした おかみさん と話(はな)しながら、ゆっくりお茶(ちゃ)を飲(の)みはじめました。良平(りょうへい)は、ひとりでいらいらしながら、トロッコのまわりをぐるぐるまわってみました。トロッコの車台(しゃだい)の板(いた)には、はねかえったどろがかわいていました。すこしあとで、茶店(ちゃみせ)から出(で)てきた時(とき)、まきたばこを耳(みみ)にはさんでいた男(おとこ)は(その時(とき)はもうはさんでいませんでしたが)、トロッコのそばにいた良平(りょうへい)に、新聞紙(しんぶんし)につつんだ おかし をくれました。良平(りょうへい)は、つめたく「ありがとう」と言(い)いました。でも、すぐに、「つめたい言(い)いかたでは、わるかった」と思(おも)いなおしました。良平(りょうへい)は、その気持(きも)ちをなおすように、つつみの中(なか)のおかしをひとつ口(くち)に入(い)れました。おかしは、新聞紙(しんぶんし)についた 石油(せきゆ) の におい がしました。
三人(さんにん)は、トロッコを押(お)しながら、ゆるい山道(やまみち)をのぼって行(い)きました。良平(りょうへい)は、手(て)をトロッコにかけながら、べつのことを考(かんが)えていました。
その坂(さか)をくだりきると、またおなじような 茶店(ちゃみせ) がありました。土工(どこう)たちが中(なか)にはいったあと、良平(りょうへい)はトロッコにこしをかけながら、帰(かえ)ることばかり気(き)にしていました。茶店(ちゃみせ)の前(まえ)には、花(はな)のさいた梅(うめ)に、西日(にしび)の光(ひかり)がすこしのこっていました。
「もう日(ひ)がくれる」――そう考(かんが)えると、良平(りょうへい)はぼんやりすわっていられませんでした。トロッコの車輪(しゃりん)をけってみたり、ひとりでは動(うご)かないと知(し)っていながら、うんうん押(お)してみたりして、気持(きも)ちをまぎらわせていました。ところが、土工(どこう)たちは出(で)てくると、車(くるま)の上(うえ)のまくらぎに手(て)をかけて、なにげなくこう言(い)いました。
「おまえは、もう帰(かえ)りな。おれたちは今日はむこうにとまるから」
「あんまり帰(かえ)りがおそくなると、おまえの家(うち)でも心配(しんぱい)するずら」
良平(りょうへい)は、いっしゅんわけがわからなくなりました。もうすぐ暗(くら)くなること、去年(きょねん)のくれに母(はは)といわむらまで来(き)たけれど、きょうの道(みち)はその三四倍(さんしばい)あること、そして今(いま)から、たったひとりで歩(ある)いて帰(かえ)らなければならないこと――そういうことが、一度(いちど)にわかったのです。良平(りょうへい)は、泣(な)きそうになりました。でも、泣(な)いてもしかたがないと思(おも)いました。泣(な)いている場合(ばあい)じゃない、とも思(おも)いました。若(わか)い二人(ふたり)の土工(どこう)に、つくりわらいでおじぎをすると、良平(りょうへい)はどんどん線路(せんろ)ぞいを走(はし)りだしました。
良平(りょうへい)は、しばらくむちゅうで線路(せんろ)のそばを走(はし)りつづけました。そのうちに、ふところの中(なか)のおかしのつつみがじゃまに思(おも)えて、道(みち)ばたにすてました。ついでに、板(いた)ぞうりもぬいで、そこにすてました。うすい足袋(たび)のうらに、小(ちい)さい石(いし)があたりましたが、足(あし)はかるくなりました。左(ひだり)に海(うみ)を感(かん)じながら、急(きゅう)な坂(さか)をかけのぼりました。ときどき、なみだが出(で)そうになると、顔(かお)がゆがみました。がまんしても、鼻(はな)だけはずっと「くうくう」となりました。たけやぶのそばをかけぬけると、夕(ゆう)やけの下(した)、日金山(ひがねやま) の空(そら)も、もう赤(あか)さが消(き)えかかっていました。良平(りょうへい)は、ますます心(こころ)があせりました。行(い)く時(とき)と帰(かえ)る時(とき)で、けしきがちがうのも不安(ふあん)でした。着物(きもの)があせでぬれたのも気(き)になって、またむちゅうで走(はし)りつづけながら、はおりをぬいで道(みち)ばたにすてました。みかんばたけに着(つ)くころには、辺(あた)りはどんどん暗(くら)くなってきました。「いのちさえたすかれば――」良平(りょうへい)は、そう思(おも)いながら、すべっても、つまずいても、走(はし)って行(い)きました。
やっと、遠(とお)くの夕(ゆう)やみに、村(むら)のはずれの工事場(こうじば)が見(み)えた時(とき)、良平(りょうへい)は、わっと泣(な)きたくなりました。でも、その時(とき)も、泣(な)きそうな顔(かお)はしましたが、泣(な)かずにかけつづけました。
村(むら)に入(はい)ってみると、もう家(いえ)のまどには、電(でん)とうの光(ひかり)が見(み)えました。良平(りょうへい)は、その光(ひかり)に、自分(じぶん)の頭(あたま)からあせのゆげが立(た)つのが、はっきりわかりました。井戸(いど)ばたで水(みず)をくんでいる女(おんな)の人(ひと)や、畑(はたけ)から帰(かえ)る男(おとこ)の人(ひと)は、良平(りょうへい)が「はあはあ」といきをきらして走(はし)るのを見(み)て、「おい、どうした?」などと声(こえ)をかけました。でも、良平(りょうへい)は何(なに)も言(い)わず、ざっか屋(や)や、とこ屋(や)など、明(あ)かるい家(いえ)の前(まえ)を通(とお)りすぎて行(い)きました。
自分(じぶん)の家(いえ)の門(もん)に走(はし)りこんだ時(とき)、良平(りょうへい)は、とうとう大声(おおごえ)でわっと泣(な)きだしました。その泣(な)き声(ごえ)で、すぐに父(ちち)や母(はは)が来(き)ました。とくに母(はは)は、何(なに)か言(い)いながら、良平(りょうへい)の体(からだ)をだきました。でも、良平(りょうへい)は手(て)や足(あし)をばたばたさせながら、泣(な)きつづけました。その泣(な)き声(ごえ)がとても大(おお)きかったので、近(ちか)くの女(おんな)の人(ひと)たちも、三四人(さんよにん)、くらい門(もん)の前(まえ)に集(あつ)まってきました。父(ちち)も母(はは)も、その人(ひと)たちも、口(くち)ぐちに「どうしたの?」と聞(き)きました。でも、良平(りょうへい)は、何(なん)と聞(き)かれても、ただ泣(な)きつづけるだけでした。あの遠(とお)い道(みち)をずっと走(はし)ってきた、いままでの心(こころ)ぼそさを思(おも)いだすと、いくら泣(な)いても、まだ足(た)りないような気持(きも)ちだったのです。
***
良平(りょうへい)は、二十六(にじゅうろく)の年(とし)、つまや子(こ)どもといっしょに、東京(とうきょう)に出(で)てきました。今(いま)では、あるざっし社(しゃ)の二階(にかい)で、本(ほん)の間違(まちが)いを直(なお)す仕事(しごと)をしています。でも、良平(りょうへい)は、ときどき、何(なん)の理由(りゆう)もないのに、その時(とき)のことを思(おも)い出(だ)すことがあります。何(なん)の理由(りゆう)もないのに?つかれている時(とき)、良平(りょうへい)の前(まえ)には、あのころのような、暗(くら)い たけやぶ や 坂道(さかみち) が、ほそく長(なが)く、つづいているように見(み)えるのです。
Two workers stood on the torokko after they put dirt on it. Because the cart went downhill, it didn’t need people to push it. The cart moved fast, the workers’ clothes flew in the wind, and the small tracks shook. Ryohei liked watching this very much. He sometimes wanted to become a worker. He also wanted to ride the torokko with the workers, even just one time.
When the torokko came to the flat land near the village, it stopped by itself. Then, the workers quickly jumped off and dumped the dirt at the end of the tracks. After that, they started to push the empty cart back up the hill. Ryohei thought, “Even if I can’t ride it, I want to help push it.”
One evening, at the beginning of February, Ryohei went to the edge of the village with his younger brother and a neighbor boy. They saw some torokko carts there. The carts were dirty and standing in the dim light. But there were no workers around. The three boys carefully pushed the cart at the end. When all three pushed together, the wheels started to move with a loud sound. Ryohei was a little scared at first. But when he heard the sound again, he wasn’t scared anymore. “GORORI, GORORI,” the cart moved slowly as they pushed it up the tracks.
After about 18 meters, the track became steeper. Now the three boys could not move the cart, even with all their strength. Sometimes the cart almost rolled back and pushed them. Ryohei thought, “That’s enough,” and gave a signal.
“Let’s get on!”
They all jumped on the torokko at the same time. At first, it moved slowly. But soon it went faster and faster down the tracks. The trees and houses on both sides flew past their eyes. The cool wind hit their faces. The cart jumped under their feet. Ryohei felt very, very excited.
But after two or three minutes, the cart stopped again at the same place it started.
“Let’s push it again!” he said.
Ryohei and the younger boys tried to push the torokko again. But before the wheels could move, they suddenly heard someone walking behind them. Then they heard a loud angry voice.
“Hey, you! Who said you could touch the TORO?”
A tall worker was standing there. He wore an old work jacket and a straw hat, even though it was not summer. When Ryohei saw the man, he and the other boys ran away quickly. After that, even when Ryohei saw the torokko on his way back from errands, he never wanted to ride it again. But he still remembered the man’s face clearly. The small yellow hat in the dim light stayed in his memory. But every year, that memory became weaker.
About ten days later, Ryohei stood alone again at the work site in the afternoon. He was watching for a torokko. Then he saw one torokko with wooden sleepers, not dirt. It was coming up the wide main track. Two young men were pushing it. Ryohei felt they were friendly. He thought, “Maybe they won’t get angry.” He ran to them and said,
“Can I help you push?”
One of the men, wearing a striped shirt, gave a nice answer while still pushing.
“Sure, come help!”
Ryohei got between the two men and pushed hard.
“You’re strong!”
the other man, who had a cigarette behind his ear, said kindly.
The slope became easier.Ryohei was worried they would tell him to stop soon. But the men stood up straighter and kept pushing without saying anything. He couldn’t wait and asked carefully,
“Can I keep pushing?”
“Of course,” they both answered at the same time. Ryohei thought, “These men are very kind.”
They pushed the torokko for a long way. Then the slope became steep again. On both sides, there were orange trees with yellow fruit in the sun.
“Going uphill is nice. I can help longer,” Ryohei thought as he pushed with all his strength.
After they climbed through the orange trees ,the track went downhill. The man in the striped shirt said, “Hey, get on!” Ryohei quickly jumped on. The torokko ran fast with the smell of oranges in the wind. “Riding is much better than pushing,” Ryohei thought, feeling the wind in his clothes. “If we push more on the way up, we can ride more on the way back.” He thought about that too.
When they came to a bamboo forest, the torokko stopped. They started pushing again. The forest changed to a woods. Some parts were so steep that fallen leaves covered the rusty rails. When they finished that climb, they saw a wide cold sea beyond a cliff. At that moment, Ryohei felt he had come too far.
They rode the torokko again. It ran under tree branches, with the sea on the right. But Ryohei didn’t feel happy anymore. “I want to go back now,” he thought. But he knew the torokko could only go back after reaching the end.
Next, they stopped in front of a tea shop. It had a straw roof and stood by a cut hill. The two men went into the shop and drank tea with the shop lady, who had a baby on her back. Ryohei waited outside, walking around the torokko. There was dried mud on the torokko’s strong wooden floor.
After some time, the men came out. One man gave Ryohei a paper package of sweets. Ryohei said coldly, “Thanks.” But then he felt bad for being cold. He ate one sweet to show he was thankful. It tasted like oil from the newspaper.
They pushed the torokko again up a gentle hill. Ryohei was thinking about other things.
At the next tea shop, they went inside again. Ryohei sat on the torokko and kept thinking about going home. The sun was setting. He kicked the wheels, and tried to push the torokko even though he knew he couldn’t do it alone. He did that to forget his worries.
Then the men came out and said, “You should go home now. We’re staying here tonight.”
“If you’re too late, your family will worry.”
Ryohei was shocked. It was already getting dark. He remembered how far he came. He had to walk back alone now. He almost cried, but he thought, “Crying won’t help.” He quickly bowed to the men and started running along the tracks.
He ran without thinking. Then he noticed the sweet package in his pocket. He threw it away.
He also took off his wooden sandals and left them. The small stones hurt his feet, but he could run faster. He ran up the steep path with the sea on his left. Sometimes he felt like crying, but he kept going. Even when he stopped his tears, his nose made soft sounds.
As Ryohei ran past the bamboo forest, he saw the red sunset over Mount Higane was slowly going away. He felt more and more worried. The way back looked different from when he came, so he felt uneasy. His clothes were also wet with sweat, and it made him feel uncomfortable. Still running hard, he took off his jacket and threw it by the side of the road.
By the time he reached the orange farm, it was already getting dark. “If I can just get home safely…” he thought, and kept running, even if he slipped or tripped.
Finally, he could see the construction area near his village in the distance. It was getting dark, and when he saw it, he felt like crying. He almost cried, but he kept running instead.
When he entered the village, the houses on both sides had their lights on. He saw steam rising from his sweaty head in the light. Some women at the well and men coming back from the field saw him breathing hard and running. They said, “Hey, what happened?” But Ryohei didn’t answer. He just ran past the bright shops, like the general store and the barber.
When he reached the gate of his house, he finally cried out loud. His loud crying made his father and mother come out right away. His mother said something and held him gently. But Ryohei kept crying hard, shaking his arms and legs. His crying was so loud that some women from the neighborhood also came to the gate. His father, mother, and neighbors all asked him why he was crying. But he couldn’t say anything. He just kept crying and crying. He had run such a long way home, and when he remembered how lonely and scared he had felt, he felt like even if he cried and cried, it was not enough…
When Ryohei was 26 years old, he moved to Tokyo with his wife and child. Now he works upstairs at a magazine company, checking the printed words with a red pen. Sometimes, for no reason at all, he remembers that evening. For no reason? Even now, when he feels tired from work, he still sees the dark road with hills and bamboo, just like that evening…